坂田武雄(サカタのタネ)
坂田武雄(さかたたけお)氏は、東証一部に上場する、国内最大手の種苗会社「サカタのタネ」を創業した実業家(1888/12/15-1984/1/12)です。20代前半に海外実業練習生として、アメリカやヨーロッパで種苗や園芸を学び、1913年(24歳の時)に横浜で「坂田農園」を創業し、以降、大正から昭和にかけて、近代日本の種苗業界の発展に大きく貢献しました。
なお、種苗(しゅびょう)とは、植物の種(たね)と苗(なえ)のことで、また種苗業界とは、穀物や野菜、草花、芝草の種子などを研究開発・生産・販売する業界であり、現在、サカタのタネは世界有数の種苗会社となっています。
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坂田武雄の基本情報
坂田武雄氏は、1888年に文部省役人の父・伝蔵、母・邑(むら)の間に8人兄弟の長男として東京で生まれました。幼少期は、動物や植物、読書が好きな少年だったとのことで、中学卒業後、帝国大学農科大学実科へ進学しました。寄宿舎で3年間の学生生活を送り、海外で種苗や園芸の基礎を学んでみたいと考え、卒業と同時に農商務省の海外実業練習生募集に応募し、資格試験に合格しました。
1909年(満20歳の時)にアメリカへ旅立ち、ニュージャージー州のヘンリー・A・ドリアー(Henry A. Dreer)社で働くことになりました。そこでは、過酷な労働に耐え抜き、苗木事業の実務を学び、また「生涯の恩師」と呼べるアイスレー社長(Jacob D. Eisele)に出会い、とてもよくしてもらい、3年間の研修後、ヨーロッパの業者へ紹介状を書いてもらい、英国とオランダでも学ぶことができました。
そして、帰国することになった武雄氏は、既に「日本へ帰ったら自力で苗木会社を興して商売を始めよう」と考えており、起業・独立を決心していました。
生没 | 1888年12月15日-1984年1月12日(享年95歳) |
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出身 | 東京都 |
学歴 | 帝国大学農科大学実科 |
就職 | ヘンリー・A・ドリアー社・・・1909年 |
起業 | 坂田農園・・・1913年 |
坂田武雄の事業年表
坂田武雄氏は、帰国後の1913年(24歳の時)に苗木の輸出入を手がける「坂田農園」を横浜に設立しました。当時、ユリの球根は絹織物に次ぐ有望な輸出品となっており、1914年からヤマユリやカノコユリの球根輸出を始め、最初の大きな商売となりました。創業から約3年が経ってもまだ利益を出せなかった中、種子なら苗木より商売面で勝負が早いと考え、1916年に種子の販売に踏み切りました。
人一倍働いたものの、どうしても運転資金が足りず、資金繰りが厳しくなってきた1918年頃、知り合った財界の篤志家(大倉和親、森村市左衛門、長与程三ほか)に援助してもらい何とか持ちこたえ、1922年に匿名組合「坂田商会」を設立しました。種子輸出中心の専門会社として再出発し、注文が次第に舞い込むようになったものの、送った種子が発芽しないケースもあり、1921年に民間初の「発芽試験室」を設けました。
事業は徐々に軌道に乗り、特にアメリカで日本野菜の評判が良く、取引額も急増したため、需要拡大を考えた武雄氏は1921年に渡米し、シカゴ支店を開設しました。1922年には、さらに力を入れて種子輸出に取り組むため、横浜市に3階建ての本社建物を新築・移転し、ほぼ同時に満州で花と野菜の種子の委託生産を開始しました。しかしながら、順調にいっていたのも束の間、1923年に関東大震災で本社建物は倒壊し、武雄氏は危うく九死に一生を得ましたが、その余波でシカゴ支店は閉鎖せざるを得なくなりました。
関東大震災の痛手から何とか立ち直り、自社農場で優良品種の育成に取り組むため、1930年に茅ヶ崎試験場を開設しました。当時、武雄氏は世界屈指の海外の種苗会社から種子生産の委託を受け、日本で種子を増殖して販売すると共に、自らも選抜しながらより良い品種に仕上げていくことを繰り返しており、その中に南米原産の「ペチュニア(草花)」も含まれていました。
これまでペチュニアは一重と八重が混ざり合う不完全なものしかありませんでしたが、完全八重咲きのオール・ダブル・ペチュニア「ビクトリアスミックス」の育種(開発)に世界で初めて成功し、1934年に園芸業界で最も権威ある業界団体の一つの「AAS:オール・アメリカ・セレクションズ(全米品種審査会)」で初入賞し、世界を驚かせました。この開発したペチュニアの種子は世界中から注文が殺到し、坂田商会に大きな利益をもたらしました。
しばらくの間、坂田商会は順調に発展していきましたが、日中戦争の勃発を期に業績にかげりを帯びるようになり、1942年には国策として企業合同が推奨されたため、坂田商会も解散して同業4社と合同し、「坂田種苗株式会社」を設立して武雄氏が社長に就任しました。そして、1945年5月の横浜大空襲で大規模火災が発生して社屋を焼失し、当時56歳の武雄氏は翌月に社長を辞任しました。
1945年8月に日本の敗戦で戦争は終わりましたが、坂田種苗に170名ほどいた社員は20数名に激減し、戦後も不遇な状況がしばらく続きました。後任の麻生今助社長は戦後の混乱期を何とか乗り切りましたが、1947年に武雄氏を訪問して社長復帰を促し、数時間に及ぶ激論と押し問答の末に根負けして、武雄氏は社長に58歳で復帰しました。その後、武雄氏は1974年(86歳)まで社長を続け(86歳で会長、91歳で相談役)、会社の成長や種苗業界の発展に長く尽力しました。
20-29歳 | 1913年:横浜に「坂田農園」を設立 1914年:欧米向けにユリ球根の輸出を開始 |
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30-39歳 | 1921年:発芽試験室を設置、シカゴ支店を開設 1922年:匿名組合「坂田商会」を設立、事務所を新築 1923年:関東大震災で社屋喪失、シカゴ閉鎖 1927年:国内向カタログ「園の泉」を発行 |
40-49歳 | 1930年:茅ヶ崎試験場を開設 1931年:「園の泉趣味号」を創刊 1934年:オールダブルペチュニアで銀賞を受賞 1935年:大船農場を開設 |
50-59歳 | 1939年:上海支店を開設 1942年:企業合同で「坂田種苗」を設立、上海閉鎖 1945年:空襲で社屋消失、社長を辞任 1947年:社長に復帰 |
60-69歳 | 1951年:本社に売店部(現・ガーデンセンター)を設置 |
70歳- | 1959年:三郷試験場を開設 1960年:長後試験場を開設 1961年:中井試験場を開設 1962年:メロン「プリンス」を発売 1971年:君津育種場を開設 |
坂田武雄の人物像
坂田武雄氏は、一生涯を種子に捧げた人で、1965年に開催されたAAS(全米品種審査会)総会において、優良品種育成に最高の功績のあった育種家に贈られる特別賞「シルバーメタリオン牌」を受賞しています(外国人として初めて受賞)。また、生前は「研究所や農場が先、本社は最後でよい」「花の仕事には終わりがない」が口癖だったそうです。なお、プライベートにおいては、西洋近代美術作品の収集に情熱を注いでおり、「坂田コレクション」として52点が横浜市美術館に寄贈されています。
坂田武雄の関わった「サカタのタネ」
坂田武雄氏が一代で築いたサカタのタネは、現在、国内で最大手、世界で有数の種苗会社となっています。1913年の創業以来、100年を超える歴史を持ち、武雄氏が掲げた「品質・誠実・奉仕」という社是は今日にも引き継がれて会社のベースとなっており、また創業100年を機にグループスローガンを「PASSION in Seed」としています。
一般に種苗市場は全世界が対象であるため、同社は国内外の研究機関で世界中の民族や地域のニーズに合わせた育種(研究開発)に取り組んでおり、専門は花と野菜となっています。例えば、ブロッコリーやトルコギキョウは世界シェアNo1で、またプリンスメロンやアンデスメロンは同社が開発したものです。
会社名 | 株式会社サカタのタネ〔SAKATA SEED CORPORATION〕 |
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創業者 | 坂田武雄 |
創業 | 1913年7月 |
設立 | 1942年12月 |
事業内容 | 1.種子・苗木・球根・農園芸用品の生産および販売、書籍の出版および販売 2.育種・研究・委託採種技術指導 3.造園緑化工事、温室工事、農業施設工事の設計、監理、請負 |
経営理念 | 三者共栄、三位一体 |
上場 | 東証1部 |