青山五郎(青山商事)

青山五郎(あおやまごろう)氏は、東証一部に上場する、「洋服の青山」で知られる青山商事を創業した実業家(1930/3/4-2008/1/15)です。広島県出身で地元の大蔵省専売局に勤めた後、34歳で洋服店を立ち上げ、価格破壊の先駆者となって、一代で年商2,000億円に迫る日本一の紳士服販売チェーンを築き上げました。

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青山五郎の基本情報

青山五郎氏は、1930年に広島県府中市で7人兄弟(男6人・女1人)の五男として生まれました。父親は腕の良い宮大工で、子どもに対して教育熱心だったことから、4人いた兄のうち2人が東京大、さらに2人が東京工大に進みましたが、五郎氏は学業面で優秀だったものの、原因不明の病気のため療養生活を送らなければならず、進学は叶いませんでした。

体調が回復し、旧制中学を卒業後、「地元に残ってほしい」という両親の勧めもあって、地元の大蔵省専売局(現:日本たばこ産業)の府中支局に勤めることになりました。五郎氏にとって、進学できなかったのは大きなショックで、大学に進んだ兄たちに負けたくないという思いがあり、「30歳になって世間から信用されるようになったら、商売で一旗揚げるしかない」と心に誓いました。

生没 1930年3月4日-2008年1月15日(享年77歳)
出身 広島県府中市
学歴 広島県立府中中学校(旧制中学)
就職 大蔵省専売局・・・旧制中学卒業後
起業 青山商事・・・1964年(34歳)

青山五郎の事業年表

青山五郎氏は、1964年(34歳)の時に、府中市の商店街にあった自宅を改造し、最初の洋服店を立ち上げました。創業時の社員は、五郎氏(社長)と兄弟3人の4人で、「日本一の洋服屋になる」と宣言しました。最初のうちは、紳士服(背広)だけではやっていけず、漬物や干物など地元産品から清涼飲料水まで手掛けました。

当時、背広はあまり普及しておらず、オーダーメードが主流で、サラリーマンにとっては高根の花だった中、既製服の背広が出回り始め、今後は大衆を中心にどんどん伸びると考えました。見込み(予想)はあっていたものの、現実として、素人同然で始めた商売は甘くはなく、独立後数年は営業面や資金繰り面で苦労をしました。

創業5年目の1969年に青山商事の売上高は1億円を突破し、相変わらず資金繰りに苦労していましたが、特産品などから手を引き、紳士服販売に特化しました。また、1968年に五郎氏の呼び掛けで、仕入れや販売促進、店舗運営などで協力し、大手量販店に対抗するのを目的として、年商1億円前後に上る全国各地の洋服店280社が集まり、ボランタリーチェーンを立ち上げました。

五郎氏はボランタリーチェーンを立ち上げる一方で、主要な駅前に相次いで姿を現していたショッピングセンターにも注目し、つてを頼ってダイエーの中に出店させてもらえるようになりました(1972年までに計7店を出店し、売上順調)。ところが、石油ショック直前の1972年頃になると様相が一変し、景気の落ち込みで消費者の財布の紐が固くなり、駅前(街の一等地)に店を構えていて大丈夫かと不安を覚えました。

ちょうどその頃(1972年)、ボランタリーチェーンの仲間と米国へ視察旅行に出掛け、サンフランシスコ郊外の巨大ショッピングセンターを訪れた際にその賑わいぶりに驚き、車社会(マイカーと郊外居住)を念頭にした、新しいタイプの店を作ろうと決心しました。そして、1974年に五郎氏は社運を懸けて、日本初の郊外型紳士服店を東広島市にオープンさせ、ちらし作戦で集客して見事成功させました。

国内初の郊外型店の出店開始から10年、青山商事は1983年に売上高100億円の大台を突破し、この間に(1)郊外型店、(2)完全買い取り制、 (3)多店舗展開による大量販売といった独自のシステム(ビジネスモデル)を確立し、大きく成長しました。一方で、その頃には、同社の高い収益性に気付いた同業他社が続々と参入してきて、厳しい競合が始まりました。

このような状況の中、1985年に地盤の西日本から東日本へ打って出て、東北地方一円で20店近くを一気に出しましたが、思うように売上は伸びず、1986年は減益決算になったうえ、同年9月(56歳の働き盛りの時期)に五郎氏は突然の脳梗塞に倒れ、年末まで3カ月間の入院生活を余儀なくされました。

最大のピンチだった入院中は「経営の原点」を見直すチャンスと受け止め、五郎氏は退院後、徹底した社員の意識変革に乗り出し、1987年11月に大阪証券取引所二部などに念願の上場を果たしました。そして、1991年にそれまで業界トップだったタカキューを抜き、五郎氏が創業時に掲げた「日本一の洋服店になる」という目標を達成しました。

30-39歳 1964年:広島県府中市に青山商事を設立
1968年:洋服店のボランタリーチェーンを立上げ
40-49歳 1972年:ボランタリーチェーンの仲間と米国視察
1974年:業界初となる郊外立地の紳士服専門店を開店
50-59歳 1983年:POSシステムを導入
1985年:全国50店舗を達成
1987年:大証2部、広証に株式上場
60-69歳 1990年:本社ビルを新築・移転、東証2部に株式上場
1992年:東京銀座店をオープン
1997年:社長を退任して会長に就任

青山五郎の人物像と言葉

青山五郎氏は、「人と同じ事はやらない」を経営哲学に、国内初の郊外型店をオープンしたほか、完全買い取りの仕入れや多店舗展開による大量販売など、流通業界の常識を覆すビジネスモデルを打ち出し、創業時に掲げた「日本一の洋服店になる」という目標を強い信念で達成しました。また、成功後、長年の感謝の気持ちを込めて、福山市に20億円を寄付するなど、郷土への恩返し(社会貢献)も行いました。

「常識的な考えに染まらない。社員が働いている時には遊ばない。いつも社員と一緒に仕事をする。いったん口にしたら、実現するまで、とことんやり抜く。それが私の信条だ」

青山五郎の関わった「青山商事」

青山五郎氏が兄弟と共に一代で築いた「青山商事」は、現在、「洋服の青山」や「ザ・スーツカンパニー」をはじめスーツ事業の展開で業界トップをキープしているほか、社会環境が大きく変わる中、多様な業態の展開やインターネット通販など、新たな顧客層の取り組みにも注力しています。

会社名 青山商事株式会社〔AOYAMA TRADING Co., Ltd.〕
創業者 青山五郎
設立 1964年5月6日
事業内容 各種衣料品の企画・販売に関する事業
経営理念 持続的な成長をもとに、生活者への小売・サービスを通じてさらなる社会への貢献を目指す
上場 東証1部

人物の生誕別区分