石橋信夫(大和ハウス工業)
石橋信夫(いしばしのぶお)氏は、東証一部に上場する、建設業大手の大和ハウス工業を創業した実業家(1921/9/9-2003/2/21)です。第二次世界大戦での大怪我や過酷なシベリア抑留を乗り越え、1948年に復員後、家業の吉野中央木材を経て、1955年に日本の発展に貢献すべく、鉄パイプによる建築を発案し、「建築の工業化」を目指して「大和ハウス工業」を創業しました。
以降、信夫氏の反骨精神と情熱的な人間育成、さらに「夢」を追い求めてやまない強靭な志を糧として成長し、1995年には単体で売上高1兆円を達成するなど日本を代表する住宅メーカーに育て上げ、また今日の複合事業体である大和ハウスグループの基盤を築き上げました。
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石橋信夫の基本情報
石橋信夫氏は、1921年に1000m級の山々に囲まれた奈良県吉野郡川上村で、材木業を営む家庭の五男として生まれました。子どもの頃は、お山の大将で通し、暴れ放題、ケンカし放題で、負けず嫌いのワンパク少年だったそうです。1939年に奈良県立吉野林業学校を卒業し、満州林業開発員として大陸に渡りました(満州営林庁敦化営林署に勤務)。
戦争が始まり、1942年に前橋陸軍予備士官学校を卒業し、陸軍に従事しました。1944年にソ連国境で速射砲隊の小隊長として指揮をとっていた時、完治が望めないと言われる程の大怪我をしましたが、看護婦の献身看護、軍医の最新治療、本人の強い意思により奇跡的に回復しました(後遺症は生涯残った)。退院後は部下が待つ原隊に復帰しましたが、すぐに終戦(敗戦)となり、敗戦後はソ連の捕虜となって、3年間に及ぶ過酷なシベリア抑留生活を送りました。
1948年に復員(日本へ帰国)し、翌年の1949年に兄の義一郎氏が経営する「吉野中央木材」に入社して取締役に就任し、家業に従事しました。そして、仕事をする中で、戦争や災害(超大型台風)で荒廃した故郷の山や町に奮い立ち、「木材の代わりに強い鉄パイプで家をつくろう」と決意し、1955年に「大和ハウス工業」を創業しました。
ちなみに、社名の「大和」は創業者の出身地(奈良)の旧国名からとったもので、「ヤマト」ではなく「ダイワ」と読ませたのは「大いなる和をもって経営に当たりたい」という意味を持たせるためで、また「ハウス工業」は建築物を工業化しようという創業理念を示しているそうです。
生没 | 1921年9月9日-2003年2月21日(享年81歳) |
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出身 | 奈良県 |
学歴 | 奈良県立吉野林業学校 前橋陸軍予備士官学校 |
就職 | 満州営林庁敦化営林署・・・1939年 吉野中央木材・・・1949年 |
起業 | 大和ハウス工業・・・1955年 |
石橋信夫の事業年表
石橋信夫氏は、1955年に大和ハウス工業を設立し、常務取締役に就任しました(社長は兄の義一郎氏)。荒廃した山や町などを見て自然の強靱さに学び、「鉄で建物を作る(円くて空洞の鉄パイプで家を建てる)」というアイデアを実現するべく、わずか18人の社員と共に、創業から3カ月後、鉄パイプを工場で加工して現場で組み立てる「パイプハウス」を開発しました。
パイプハウスの実用化に目途をつけた信夫氏は、すぐに営業を行い、中小企業と渋る相手に持ち前の気迫で扉を開き、国鉄(現:JR)や電電公社(現:NTT)、官公庁を中心に、倉庫や車庫、事務所で幅広く採用されました。また、大型建築を望む声に応え、日本初の鋼管構造建築を開発しました。なお、この頃、完成までの驚異的な速さが評判を呼んだことから、信夫氏は、スピードは最大のサービスであり、企業の利益を最大化すると確信したそうです。
ある日、アユ釣りに出かけた信夫氏は、日が暮れても遊ぶ子どもたちの姿に気づき、子どもたちの勉強部屋(居場所)を作ろうと決意し、1959年にプレハブ住宅の原点「ミゼットハウス」を発売し、3時間で建つ勉強部屋として爆発的にヒットしました。また、1960年には新婚家庭向けの風呂・台所付き「スーパーミゼットハウス」を発売して驚異的な人気となり、以降、居住面積も徐々に拡大し、本格的なプレハブ時代が幕を開けました。
その後、1962年に大規模住宅団地を開発して民間初のデベロッパー企業になり、1978年に複合リゾート開発として「ダイワロイヤルホテルズ」をオープンし、また1980年にホームセンター事業として「ロイヤルホームセンター」をオープンするなど、常に新しい事業の展開では、信夫氏が先頭に立ってきました。なお、役職面では、1963年に代表取締役社長に就任し、1980年に心臓を病んだのをきっかけに代表取締役会長に就任しました。
晩年、信夫氏の夢は「創業100周年で売上10兆円」で、2003年に81歳で永眠し、この夢は後継者に託されました。
20-29歳 | 1949年:吉野中央木材の取締役に就任 |
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30-39歳 | 1955年:大和ハウス工業を設立、常務取締役に就任 1959年:ミゼットハウスを発売 1960年:スーパーミゼットハウスを発売 |
40-49歳 | 1961年:東証・大証・名証に上場 1962年:大規模住宅団地を開発 1963年:代表取締役社長に就任 |
50-59歳 | 1971年:経済団体連合会の理事に就任 1978年:ダイワロイヤルホテルズをオープン 1980年:ホームセンター事業、代表取締役会長に就任 |
60-69歳 | 1989年:住宅建設業団体協議会の会長に就任 |
70歳- | 1992年:代表取締役相談役に就任 1997年:住宅生産団体連合会の会長に就任 |
石橋信夫の人物像と言葉
石橋信夫氏は、信念や一徹、猛烈であると評される一方、頑固や独善とも評され、確かに性格は厳しかったそうですが、その本質は義理と人情に厚い好漢だっだそうです。
不撓不屈の事業家(経営者)で、その生涯において、日本のために何をすればいいのかを考え続け、事業を通して人を育て、社会を発展させていくことが企業経営の根本であると説き続けました。また、部下のためには身体をはる、自分の家族との団らんなど犠牲にするのは当然というのが男の美学としてありました。
・カンが先で理論は後や。
・お金のないほうが商売は儲かる。
・どんなに売れる商品でも、3年後には墓場へやれ。
・困難を解決するのが社長の仕事だ。
・人に嫌われるのが嫌な者は経営者にはなるな。
・闘いには百戦百勝、ぜったいに勝たないかん。経営でも人生でもそうや!
・事業を興すときは、何をしたら儲かるかではなく、世の中のためになるかどうかで考えろ。
・ワシには社員6400人、いや下請け会社の家族を含めれば10万人近くの人間を食べさせていく義務があるんや。家族のことなどほとんど省みんかったのは、この人たちのことが気がかりだったからや。
・通夜は「石橋家の通夜」をせい。会社と石橋家の看板と花があればいい。あとは一切受け取るな。出席するのは本社と関連会社の幹部だけ。出棺がすんだらもう帰って仕事につけ。わしにとっていちばんの弔意は、この会社が100年、200年続くことや。
石橋信夫の関わった「大和ハウス工業」
石橋信夫氏が1955年に「建築の工業化」を企業理念に創業した「大和ハウス工業は、創業商品である「パイプハウス」やプレハブ住宅の原点である「ミゼットハウス」などを開発し、以降、戸建住宅をコア事業に、賃貸住宅や分譲マンション、商業施設、事業施設(物流施設、医療・介護施設等)など事業領域を拡大し、今日では複合事業体へと進化しました。
現在、大和ハウスグループは、「人・街・暮らしの価値共創グループ」として、絶えず変容する社会ニーズに応え、継続的に成長するための強固な基盤を構築するべく、国内だけでなく海外においても、地元に密着した事業展開の土台づくりに着手すると共に、既存事業の周辺領域も含めて事業の川上から川下まで顧客ニーズに応えられるよう、さらなる業容の拡大に努めています。
会社名 | 大和ハウス工業株式会社〔Daiwa House Industry Co., Ltd.〕 |
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創業者 | 石橋信夫 |
創業 | 1955年4月5日 |
事業内容 | 建築事業、都市開発事業、海外事業、その他 |
基本姿勢 | 共に創る。共に生きる。 |
上場 | 東証1部 |