山葉寅楠(ヤマハ)
山葉寅楠(やまはとらくす)氏は、東証一部に上場する、世界的な総合楽器メーカーのヤマハを創業した実業家(1851/5/20-1916/8/8)です。江戸時代の末期に生まれ、1887年(明治20年)に機械修理工として働いていた時、静岡県浜松市の小学校で1台の壊れたオルガンの修理をきっかけとして、その自作を決意し、2カ月程で試作品の製作に成功しました。
試作第1号は調律面で大きな問題がありましたが、寅楠氏は音楽理論と調律法を学んで、すぐに舶来品と見劣りしない性能のオルガンを作り上げ、1889年にオルガン製造を行う「山葉風琴製造所」を設立しました。その後、諸事情で製造所の解散と再設立を経て、1897年に「日本楽器製造(現:ヤマハ)」を設立しました。そして、1900年からピアノ製造も開始し、今日の楽器メーカーとしてのヤマハの基礎を築きました。
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山葉寅楠の基本情報
山葉寅楠氏は、1851年に紀州徳川藩士で天文係をしていた山葉孝之助氏の三男として生まれました。父の孝之助氏は、天文係として天文暦数だけでなく、土地測量や土木工事設計なども行う聡明な人だったそうで、息子の寅楠氏は、父の仕事を見て育ったからか、器具や機械類に関心をもち、また手先が器用だったそうです。
明治維新で徳川幕府がなくなり、家が没落していた中、1871年(20歳の時)に大阪に出たときに時計に興味を持ち、長崎で時計の製造技術や修繕法を学び、その後、大阪の医療器具店に勤めて、修理工として働きました。そして、1884年頃から医療器械の修理で浜松の病院を訪れるようになり、1887年(36歳の時)に浜松尋常小学校からオルガンの修理を依頼されたことが、寅楠氏のその後の歩み(楽器製造への道)を決定することになりました。
生没 | 1851年5月20日-1916年8月8日(享年65歳) |
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出身 | 江戸もしくは紀伊国 |
就職 | 医療器具店・・・20代半ば |
起業 | 山葉風琴製造所・・・1889年 |
山葉寅楠の事業年表
山葉寅楠氏は、高い技術力を買われて、1887年に浜松尋常小学校から高価な輸入品である「オルガン」の修理を依頼されました。慎重に分解して、すぐに故障の原因を突き止め、修理を難なく成功させ、またオルガン内部を模写して設計図を作りました。当時、日本の音楽教育は黎明期で、将来、オルガンは全国の学校に設置されると予測し、国産化できれば国益になると考え、また自分なら安く作れる自信がありました。
早速、寅楠氏は、飾り(貴金属加工)職人の河合喜三郎氏と共にオルガンの製作に取りかかり、約2カ月後に試作品(第1号)となるオルガンを完成させました。その出来栄えを東京音楽学校(現:東京藝術大学)の伊沢修二校長に見てもらったところ、調律が不正確で使用に耐えないと評価されました。それもそのはずで、寅楠氏には音階の知識が全くなく、この問題を解決すべく、音楽理論と調律法を学んで、再度、オルガン作りに取り組みました。そして、完成させたオルガン(第2号)は、舶来品(外国製)に代わりうるオルガンだと評価されました。
外国製にも負けない優れた性能のオルガンを開発し、評判となって注文も急増し、1889年にオルガン製造を行う「合資会社山葉風琴製造所」を設立しました。しかしながら、1891年に出資の引き揚げにより解散しますが、河合喜三郎氏らと共同で新たに「山葉楽器製造所」を設立しました。また、1897年には「日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ)」に改組し、その頃に「オルガンの次はピアノ」と考え、ピアノの国産化に着手すべく開発への投資を決断しました。
1899年に文部省の使節として米国視察を行い、多くのピアノ工場などを回って、ピアノ作りの技術や知識、設備を学び、加工機械や部品などを手にして帰国しました。1900年からピアノ製造を開始し、その後、博覧会で受賞するなど評判を得て生産が軌道に乗り、1907年にはオルガンやピアノの製造技術者を養成するユニークな見習生制度を案出し、人材育成と品質安定を図りました(製品は、国内で販売されるだけでなく、海外にも輸出されるようになった)。
さらに楽器事業の拡大(取扱楽器の総合化)の他に、関連木工部門の多角化などを通して、次第に高級用家具やベニヤの開発なども進めました(1908年にアスベスト製造法の特許を獲得するなど、発明家としての研究は生涯続いた)。寅楠氏は晩年も休むことなく、日本楽器製造と日本耐火製板(1912年に設立した建材類の会社)を往来しつつ、経営と研究に打ち込む技術系経営者でしたが、1916年に肺結核になり逝去しました(享年65歳)。
30-39歳 | 1887年:オルガン製作に成功 1889年:山葉風琴製造所を設立 |
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40-49歳 | 1897年:日本楽器製造を設立 1899年:米国へ視察旅行 1900年:アップライトピアノの製造開始 |
50-59歳 | 1902年:グランドピアノの製造開始 1907年:人材育成の見習生制度を案出 1908年:満州に大連支店を設立 |
60-69歳 | 1911年:浜松市市会議員に就任 1912年:日本耐火製板を設立 1914年:蝶印ハーモニカを発売 1916年:65歳で逝去 |
山葉寅楠の人物像と言葉
山葉寅楠氏は、実業家としては、時代を見抜く先見性、困難を克服する粘り強さ、目的を実現する熱意と強い意志を持っていました。また、経営者としては、高ぶらず、一人ひとりの職工を大切にし、病気をした者がいれば見舞いに行き、治療費を加えて給料を渡すほど、優しかったそうです。そして、人となりとしては、情に熱く恩を忘れぬ人で、受けた恩は決して忘れず、生涯に渡って恩を返したそうです。
なお、河合楽器製作所の創業者で、天才的技術者であった河合小市氏とは固い師弟関係で結ばれており、小市氏は寅楠氏を父のように慕っていました(河合小市氏は、寅楠氏の日本楽器製造に約30年勤務後に創業)。
・私は品物を販売するのに駆け引きはせぬ。生産費を控除して値段を定め、決して暴利をとらない。
・品質に対しては、絶対に責任を負うこと。責任あるものを出せば自ら信用が集まってくる。
山葉寅楠の関わった「ヤマハ」
山葉寅楠氏が設立した「日本楽器製造株式会社」は、創業100周年を機に、1987年に「ヤマハ株式会社」に社名変更されました。また、世界中で使われるヤマハブランドの商標「YAMAHA」は、洋楽器製造の先駆者である創業者の姓に由来します。
現在、ヤマハグループは、100年超の長い歴史を有し、初心者用からプロ用、アコースティックからデジタルまで、多彩なラインアップの楽器を生産して、全世界で販売しているほか、楽器の生産・販売で培った技術やノウハウを活かし、音響機器や音楽ソフト、半導体、ゴルフ用品、FA機器などにも事業領域を広げています。
会社名 | ヤマハ株式会社〔Yamaha Corporation〕 |
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創業者 | 山葉寅楠 |
創業 | 1897年 |
設立 | 1897年10月12日 |
事業内容 | 楽器事業、音響機器事業、その他 |
企業理念 | 私たちは、音・音楽を原点に培った技術と感性で、新たな感動と豊かな文化を世界の人々とともに創りつづけます |
上場 | 東証1部 |