安藤百福
安藤百福(あんどうももふく)氏は、チキンラーメンやカップヌードルでお馴染みの日清食品を創業した実業家(1910年3月5日-2007年1月5日)です。台湾出身で、若くして繊維事業で成功し、日本に進出後も幻灯機の製造やバラック住宅の製造、炭焼き、製塩、学校の設立など様々な事業を手掛けました。
多くの成功を収めた実業家人生の一方で、戦前戦後においては、いわれなき罪で投獄されたり、また請われて理事長に就任した信用組合が破綻して、47歳の時に全財産を失うなどの苦難も経験しました。そして、48歳の時に一念発起して開発した「チキンラーメン」を成功させ、一代で日本を代表する食品メーカーの日清食品を築き上げました。
96歳で人生を全うするまで、クリエイティヴな発想と最後まであきらめない執念を持ち続け、会社経営や財団運営など精力的に活動を続けました。なお、海外では、世界の食文化を変えた「即席麺」の発明者として高く評価されており、2006年のタイム誌アジア版60周年記念特集「60年間のアジアの英雄」において、その一人に選ばれました。
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安藤百福の基本情報
安藤百福氏は、1910年(明治43年)に日本統治時代の台湾の台南県東石郡樸仔脚(現・嘉義県朴子市)に生まれました(日本国籍の取得前の名前は「呉百福」)。父は呉獅玉(別名:呉阿獅)、母は呉千緑で、百福氏は四人兄弟(兄が2人、妹が1人)の三男で、父が資産家であったため、裕福な家庭に育ちました。
しかしながら、そういった幸せな日々も束の間で、百福氏は、幼くして両親を亡くしたため、兄弟と共に、織物を扱う呉服店を営む祖父母に引き取られました。そこでは、商家らしく商売や家事などを手伝うよう厳しく育てられ、14歳で高等小学校を卒業すると、祖父の仕事を手伝い、商売の機微を肌で学ぶ形となりました。(日本統治時代の台湾では、日本語教育が行われ、百福氏も日本語を取得した)
20歳頃、高等小学校時代に書生として世話になっていた森永郡守の紹介で、街に初めてできた図書館の司書となりました。ここでは、多くの書物を拾い読みし、知識を吸収したそうです。百福氏の学歴や当時の状況からすると、司書は好条件の仕事でしたが、活気のある商家で育った百福氏にとって静謐な図書館は性に合わず、2年で辞することとなり、そして商売の道へと進みました。
生没 | 1910年3月5日-2007年1月5日(享年96歳) |
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出身 | 台湾台南県 |
学歴 | 台湾時代:高等小学校 日本時代:立命館大学専門部経済学科(二部) |
就職 | 台湾時代:図書館(司書) |
起業 | 台湾時代:東洋莫大小(繊維会社) |
盟友 | - |
著書 | インスタントラーメン発明王 安藤百福かく語りき 魔法のラーメン発明物語 私の履歴書 食は時代とともに 安藤百福フィールドノート 麺ロードを行く 安藤百福語録 他多数 |
安藤百福の事業年表:日清食品を始める前
|1932年-1945年|
百福氏は、祖父母の営む呉服店で、幼少の頃から商売の現場を間近に見ながら育ち、自然と商売に興味を持ちました。1932年(22歳の時)、台北市永楽町に「東洋莫大小」という繊維会社を設立し、独立(創業)しました。会社の創業にあたっての資金は、祖父が管理していた父の遺産を役立てたそうです。
「誰もやっていない新しいことをやりたい!」と、最初の事業として選んだのは「機械編み布地のメリヤス」で、日本から製品を仕入れて台湾で販売しました。当時の繊維業界の動向からメリヤスの需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業は大きな成功を収め、1933年には日本(大阪)に進出し、メリヤス問屋「日東商会」を設立しました。
日東商会では、繊維貿易を行ったほか、近江絹糸紡績の夏川嘉久次氏と組んで、トウゴマを栽培して実からひまし油を採取し、葉を養蚕用に繊維メーカーに売る事業なども手掛けました。また、この時期、百福氏は、実業家として活動する傍ら、立命館大学専門部経済学科(二部)に学び、1934年3月に修了しました。
第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、戦時統制が厳しくなり、繊維貿易は継続できなくなりましたが、そういった時代の中でも需要を読んで、幻灯機や軍用機用エンジン部品、バラック住宅の製造、炭焼きなど次々に事業を起こしました。
<成功の裏での苦難>
戦時下では、軍用機エンジン工場の共同経営者に裏切られたことにより、資材横領のあらぬ疑いをかけられ、45日間拘束されて憲兵から拷問を受けるといった苦難もありました。
|1946年-1950年|
1946年(36歳の時)、百福氏は、疎開先から大阪へ戻り、泉大津市に住みました。終戦直後は、土地が安く手放されていたため、久原財閥の総帥で政治家であった久原房之助氏のアドバイスにより、大阪の中心街の心斎橋ほか、御堂筋や大阪駅前など相当の土地を手に入れました。
戦争時の空襲により、事務所も工場も灰燼に帰しましたが、百福氏は屈することなく事業を再開し、繊維から専門学校経営(中華交通技術専門学院)、そして「食」へと関心を広げていきました。1948年に中交総社(後のサンシー殖産、現在の日清食品)を設立し、大阪府南部で海岸に鉄板を並べ、海水を流して塩を製造する独特な手法で製塩事業を行いました。また、病人用栄養剤などを手掛ける「国民栄養科学研究所」も設立しました。
<成功の裏での苦難>
1948年12月、GHQから、製塩所の若者に渡していた小遣いへの源泉徴収を怠っていたとして脱税容疑がかかり、製塩所や自宅は立退処分、百福氏は巣鴨の東京拘置所に収監されました。この処分を不当とした百福氏は、取り消しを求めて逆に税務当局を提訴し、その法廷闘争は2年に及びましたが、残された家族を思い、訴えを取り下げて即時釈放となりました。
<結婚と日本国籍取得>
百福氏は、台湾時代に結婚し、離婚等をした後、1948年に大阪で安藤仁子さんと出会って結婚し、この時に夫人の姓に変わり、呉百福から安藤百福になりました(1966年に日本国籍を取得)。ちなみに、夫人の実家の安藤家は、福島県二本松神社の神職一族で、当地では名家とのことです。
|1951年-1957年|
大阪でやり手の事業家・資産家として名が通っていた百福氏は、釈放後の1951年(41歳の時)、請われて大阪で新設された信用組合の理事長に就任しました。当時、金融知識に乏しく、業務を人任せにしていたため、次第に経営が悪化し、1957年に遂に破綻してしまいました。理事長には無限責任があったため、大阪府池田市の借家を残して全ての財産を失ってしまいました。
<成功の裏での苦難>
理事長を務めていた信用組合が破綻し、養うべき家族がいる47歳にして、これまで築いてきた全ての財産を失ってしまいました。
1932年 | 1945年 |
1932年:東洋莫大小を設立(台湾) 1933年:日東商会を設立(日本) |
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1946年 | 1950年 |
1947年:中華交通学院を開校(1951年に閉校) 1948年:中交総社(後の日清食品)を設立 1949年:中交総社をサンシー殖産に商号変更 |
1951年 | 1957年 |
1951年:信用組合の理事長に就任 1957年:信用組合が破綻で全財産喪失(47歳) 1957年:たった一人で即席麺の研究・開発 |
安藤百福の事業年表:日清食品を始めた後
|1958年-1965年|
1957年(47歳の時)、百福氏は全ての財産を失ったものの、「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」と考え、自らを奮い立たせました。そして、終戦直後の闇市で見たラーメン屋台に並ぶ長蛇の列、厚生省役人の言葉(製麺業は零細業者が多く、供給体制に難があり、百福氏がやってみないか?)、日本人が麺類好きであることなどを思い出し、家庭でお湯があればすぐに食べられるラーメンを開発しようと決意しました。
早速、昔馴染みの大工に頼んで、自宅の裏庭に10平方米ほどの小屋を作ってもらい、そこで開発に没頭しました。目指すラーメンは、美味しくて飽きがこなく、保存性があり、調理に手間がかからず、安くて衛生的という「味付即席麺」で、また道具や材料は全て自分で探し集め、1日平均4時間という短い睡眠時間で丸一年間、たった一人で一日の休みもなく研究を続けました。そして、妻が調理していた天ぷらから思いついた、即席麺の基本となる製造技術(瞬間油熱乾燥法)を確立し、1958年春に開発が完了しました(1958年8月25日に発売)。
完成したラーメンは「チキンラーメン」と名付けられ、最初は製品を家内工業的に(家族総出で)作り、試作品を知人に食べてもらい、また海外へも送り、百貨店等の食品売り場で自ら試食販売も行いました。そういった中、手ごたえを感じた百福氏は、知人から100万円の借金をして古い倉庫を借り、工場に改装して、休眠していた会社「サンシー殖産」を復活させ、本格的に生産を開始しました。また、発売から4カ月後の1958年12月20日に商号を「サンシー殖産」から「日清食品」と改めました。
発売当初、問屋は価格の高さから「チキンラーメン」に冷淡でしたが、実際に食べた人々から「おいしくて便利だ」という評判が高まるにつれ、問屋からの注文が殺到するようになりました。また、共働きや核家族が増え始めた時代のニーズや、スーバーマーケットの登場による欧米型流通システム(大量販売ルート)の確立、新しいメディアであるテレビコマーシャルの活用などにより、日清食品は、発売5年目で年商43億円と大きく躍進し、1963年10月(百福氏が53歳の時)に東証2部・大証2部への上場を果たしました。
|1966年-1980年|
1966年、「チキンラーメン」を世界に広めようと考えた百福氏が、欧米へ視察旅行に出かけた際、現地で訪れたスーパーの担当者らがチキンラーメンを小さく割って紙コップに入れ、お湯を注ぎ、フォークで食べ始めました。これを見た百福氏は、欧米にはどんぶりも箸もないと気づき、これをヒントに、麺をカップに入れてフォークで食べる新製品を開発しようと決意しました。
1969年に開発に着手した新製品は、容器や具材、麺の揚げ方など、様々な知恵や工夫が詰め込まれて1971年に完成し、世界中で通用するように「カップヌードル(Cup Noodles)」と名付けられ、1971年9月18日に発売されました。発売当初は、価格の高さから中々店頭に並べてもらえませんでしたが、お湯の出る自動販売機の設置や若者への試食販売、テレビでの宣伝効果などにより、日本で爆発的に売れるようになりました。そして、海外へも進出し、日本生まれの世界食となりました。
<成功の影で失敗した製品>
1971年に発売された「カップヌードル」が大成功したのに対して、1974年に発売された「カップライス」は大失敗に終わりました。カップライスは、食糧庁長官からの相談を受けて開発した即席米飯で、製品面では大絶賛されましたが、原料の米が小麦粉より遥かに高価で価格面が高すぎたことから、消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされました。(30億円を投じた事業で撤退は苦渋の選択となったが、早めの決断が奏功し、経営に与える影響は少なかった)
|1981年-2007年|
1981年(百福氏が71歳の時)、社長の座を長男の安藤宏寿氏に譲り、自らは会長に退きましたが、その2年後の1983年、宏寿氏が経営方針の相違から社長を退任したため、百福氏が会長兼任で再び社長に復帰しました。その後、1985年に次男の宏基氏が社長に就任し、再び会長専任となりました。
2002年(百福氏が92歳の時)、代表取締役会長を退任し、「創業者会長」に就任しました。そして、2007年に急性心筋梗塞で亡くなるまで、毎日、精力的に活動しました。
<社長退任後の百福氏の活動>
・96歳まで生涯現役で会社に出勤し、また週2回のゴルフに行き、毎日お昼に欠かさずチキンラーメンを食べた。
・「日本人は何を食べてきたのか」というテーマを探求すべく、4年間にわたり日本各地を巡って郷土料理を食べる旅に出た。
・食文化の探究のために「麺ロード調査団」を結成して料理研究家の奥村彪生氏などと共に、中国全土を巡って300種類を超える麺を食べた。
・社員と共に宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発に取り組んだ。
・食品業界におけるベンチャーを奨励するために基金を設立した。
・安藤スポーツ・食文化振興財団の理事長としても活動した。
1958年 | 1965年 |
1958年:チキンラーメンを発売、日清食品に商号変更 1959年:大阪府高槻市に工場完成、本店移転 1963年:東証2部・大証2部に上場 |
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1966年 | 1980年 |
1970年:米国に進出 1971年:カップヌードルを発売 1972年:東証1部・大証1部に指定 1977年:本社ビル完成に伴い本店移転 1980年:年間売上高1,000億円達成 |
1981年 | 2007年 |
1985年:代表取締役社長を退任、会長専任 1988年:東京本社ビル完成 1993年:年間売上高2,000億円達成 2001年:年間連結売上高3,000億円達成 2002年:代表取締役会長を退任、創業者会長に就任 2007年:逝去(96歳) |
安藤百福の人物像と言葉
安藤百福氏は、時代の流れをいち早くキャッチして、すぐに事業化するベンチャー精神と、失敗しても決してあきらめないバイタリティーを持った人でした。また、一代で日清食品を大企業(日本を代表する食品メーカー)にした希有な実業家であると共に、インスタントラーメン(即席麺)を発明し、世界の食文化を変えた偉大なるイノベーター(変革者)でもありました。
なお、百福氏の起業家として凄いところは、若い頃から時代に合わせて様々な事業を展開しただけでなく、全ての財産を失った47歳に一念発起して、わずか1年で革新的製品(即席麺)を発明し、さらにこの新規事業で会社をわずか5年で上場させたのは特筆すべきことかと思います。
・人生に遅すぎるということはない。
・私はラーメンを売っているのではない。お客様に時間を提供しているのである。
・発明はひらめきから。ひらめきは執念から。執念なきものに発明はない。
・どんなに優れた思いつきでも、時代が求めていなければ、人の役に立つことはできない。
・時代の変化に対応するのではなく、変化を作り出せ。
・明日になれば、今日の非常識は常識になっている。
・やれそうもないことを成し遂げることが、仕事というものである。
・大衆の中にこそ、時代が変わる予兆がある。
・人の集まる所には、需要が暗示されている。
・自分の周囲にいつも好奇の目を向けろ。
・知識より知恵を出せ。
安藤百福の関わった会社「日清食品」
安藤百福氏が一代で築いた「日清食品グループ」は、1948年に魚介類の加工および販売、紡績その他繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版および販売を目的として設立された「中交総社」がスタートとなっており、当初は、食品事業では製塩などを手がけました。
1958年に即席袋麺の「チキンラーメン」を発売したのを契機に大きく躍進し、また1971年にカップ麺の「カップヌードル」を発売して以降、長い年月をかけて世界中にインスタントラーメンが広がり、世界の食文化を変えました。なお、社名は、第二の創業の1958年に「日清食品」に変更され、「日々清らかに豊かな味を作る」という思いが込められています。
創業以来、日清食品には「仕事を戯れ化せよ!」という創業者・百福氏の精神が根付いており、時代の変化の中で、イノベーションとマーケティングを軸に新たな「食」の可能性を切り拓き、世界中の人々に「食」の楽しみや喜びをお届けしています。
会社名 | 日清食品ホールディングス株式会社 〔NISSIN FOODS HOLDINGS CO., LTD.〕 |
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創業者 | 安藤百福 |
設立 | 1948年9月4日 |
事業内容 | 持株会社として、グループ全体の経営戦略の策定・推進、グループ経営の監査、その他経営管理など。 1.即席麺の製造および販売 2.チルド食品の製造および販売 3.冷凍食品の製造および販売 4.菓子、シリアル食品の製造および販売 5.乳製品、清涼飲料、チルドデザート等の製造および販売 |
創業者 精神 |
食足世平、食創為世 美健賢食、食為聖職 |
上場 | 東証1部 |